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gooブログ”Various Topics 2"より引っ越し(2025年8月24日)

GHQのチャールズ・ウィロビーと英俳優で世界連邦運動会長だったピーター・ユスティノフ

4年前に、GHQのチャールズ・ウィロビーについて書きました。 

長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビー
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/710f602c952b9d9e397a2eee91d630f5 

抜粋: 

ウィロビーは、ドイツ人の父と米国人の母を持ち、ドイツ育ち。彼が米国に帰化したのは1910年で彼が18歳のとき。

(日本語のウィキペディアでは彼は「ハイデルベルク大学卒業後米国に帰化」 となっています。しかし、英語版ウィキぺディアには「彼は1910年に米国に移住、米国陸軍の入隊、1913年除隊」となっていて、ハイデルベルグ大とソルボンヌで3年間学び(1910年以前)、1913年に米国のゲティスバーグカレッジに入学したと書いてあります。そうすると彼は15歳で二つの欧州の名門大学で学んだということになります。まあ、英語版ウィキぺディアには、彼の旧姓等、彼の申告を疑う人もいるので、何が本当かわかりません。) 

彼は、スペインの独裁者フランコの崇拝者で、ファシストであることを自他共に認める存在で、もちろんこっちこちの反共。  

(ウィロビーについては、こちらもご参考まで。 

チャールズ・ウィロビー出自の謎
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/ba7df955aa36ed496c21a55d8980c90e 

東京裁判〜レーリンク判事&エタ・H・シュナイダーそしてゾルゲ、ウィロビー
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/d57717f426bbbc390a82f7ccaab520a4 ) 

ウィロビーについて「謎」の部分が多いのですか、なぜか追及されません。 

 

先週末、夫が購入している漫画本、ビッグコミックオリジナルのなかの「赤狩り」(山本おさむ氏作)のなかで、間接的に赤狩りと戦っていたカーク・ダグラスが『スパルタルカス』を撮影中に、(製作総指揮者でもあった)カーク・ダグラスをいらだたせた、イギリス人俳優の、ピーター・ユスティノフが漫画にちらりと登場していました。 

彼は1921年生まれのロシア系ドイツ人を父に持つイギリス人。 

ウィキペディア
ピーター・ユスティノフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%95 

抜粋: 

ピーター・アレクサンダー・フォン・ユスティノフ (Peter Alexander Baron von Ustinov) として、ロンドン市内で生まれる。 

フォン・ユスティノフの父親Jona von Ustinovはロシア系のドイツ人。第1次世界大戦中はドイツ軍の空軍で活躍し、1930年代英国に移住してドイツ大使館に勤めた後、ドイツの新聞社の特派員を経て英国のMI5で働き、第二次世界大戦前は対ドイツの諜報を専門に行っていた。ユスティノフ自身の回顧録によると、自宅で英国とドイツの上級官僚が密談していたという。ユスティノフの母親はフランス、イタリア、エチオピア王室の血脈を受け継いだロシア人の画家兼バレエのステージデザイナーであった。彼女の父親は著名なロシアの建築家であり、また兄はストラヴィンスキーとディアギレフと共に働いたステージデザイナーであった。

このような家庭環境のためか、フォン・ユスティノフは英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、スペイン語を流ちょうに操り、またトルコ語や現代ギリシア語も喋った。 

フォン・ユスティノフはウェストミンスター・スクールで教育を受け、在学中はドイツ国の駐イギリス大使のウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップの息子のルドルフ・フォン・リッベントロップの同級生であった。その後中退し、1938年に早くも17歳でロンドンのプレイヤーズ・シアターで舞台デビューを、翌年には自作の戯曲の主演を務めるようになる。 

第2次世界大戦中は、一兵卒として陸軍に配属されるが、デヴィット・ニーブンと共に軍でのプロパガンダ映画の中で俳優として演じるようになった。この時、すでに映画の脚本も書いていた。 

(中略) 

笑わせる話術の賜物であった。1991年から世界連邦運動の推進委員を務めていたほか、中華人民共和国のよき理解者であった。2000年には、「人々は、人権をあまり尊重しない中国(政府)のやりかたにイライラしている。しかし、あれだけの膨大な人口を抱えていれば、人権に対して同じ態度をとるのは極めて難しい」と、ダラム大学の講演で述べている。

ほかにドキュメンタリーへの出演や司会役・インタビュアーも多く、1984年10月31日にはインドのデリーでインディラ・ガンディー首相へのインタビュー中、彼女の暗殺現場に居合わせたこともある。 

17歳で学校を中退し、「サー」の称号まで得、1991年から死亡する2004年まで世界連邦運動の会長を務めたユスティノフ。 

“優れたスパイだった”というだけで、ここまで登り詰められるものでしょうか。

 1892年生まれのウィロビー同様、謎です。 

カーク・ダグラスの自伝には、ドイツ系ユダヤ人が東欧系ユダヤ人を差別していた、ということが書いてあるようです。https://plaza.rakuten.co.jp/po523po/diary/201405060000/ 

ユダヤ人の場合、ドイツ系に資産家が多かったということも考えられますが、非ユダヤ系のドイツ移民も敵国人でありながら、自国を捨てたとして、優遇されたのでしょうかね。)

 

参考: 

ウィキペディア
世界連邦運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%80%A3%E9%82%A6%E9%81%8B%E5%8B%95

世界連邦運動新聞となった東京新聞・世界連邦運動を危険と思う理由
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/3abbdef9ef8ba179a58351cb7a5a0bc3